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片**風
日本と西欧の価値観の相違
「吾輩は猫である」を始め、夏目漱石の著書を読んで感じるのは、当然のことですが、日本と西欧の人生観、文化などの価値観が相違していることを再認識させられることです。夏目漱石は、著書の所々で、明治の時代に、西欧の価値観を無分別に受け入れることに警鐘を鳴らしていますが、これは、現在に通じるものがあると思います。それは、現在、グローバリズムで、世界が同じ価値観を共有しなくてはいけないという考えで、日本の価値観が否定され、おかしな方向に、日本社会が向かっているのではないかということを考えさせられたことです。
く**じ
なかなか深い・・
ユーモア小説として有名ですが、当時の漱石の世界観があちこちにちりばめられていて、興味深く読めました。が、・・・長い!500ページ以上あるので読むのに骨が折れました。(..;)
紫**花
近代化に依って浮かび上がった「個人」の問題を徹底追及した日本文学を代表する傑作 !
中学生の時に読んで以来、40年振りの再読。初読時は、漱石の教養・思索の深さに歯が立たなかった事を思い出す。ユーモアと諧謔味に溢れた作品と言う事は、世評もあって何となく分かったが、その実、現代にも通じる問題提起を含んだ奥深い作品だった。今回読んで見て、漱石が自身の漢籍を初めとする教養を縦横に披瀝しながらも、それをユーモアと結び付けるために、落語の段取りを巧みに利用していると思った。話者間の呼吸・小道具の用法等も落語作法の一部であり、「江戸」への愛着が感じられる。これだけの高踏的内容なのに、当時の一般読者に受けたのは、このせいだろう。作中に日露戦争の話題が再三出て来るが、漱石はそこに「近代化がもたらす暗雲」を観ている。「坂の上の雲」的史観とは雲泥の差である。日露戦争と首吊りの話題が併記されているのだ。「世の中が味気なくなって人間もつまらない」と迷亭に語らせてもいる。江戸への愛着と近代化への憂いを中心に据えた小説である。作中で"吾輩"が人間に対して行なう批判は、日清・日露の勝利に浮かれて他を顧みない人間への漱石の憂慮・公憤であろう。この観察眼の鋭さも、一般受けした原因だと思う。「自己の利益になる間は、須らく人を愛すべし」等の皮肉も散りばめられている。権力・西洋かぶれ・実業家・探偵・俗物・狭量・利己を嫌う漱石の信条も良く窺える。「世の中の不公平」を憤る心情も吐露されている。「夢十夜」や「坊ちゃん」を思わせる記述があるのも楽しい。以上を、苦沙弥先生を初めとする高等遊民達のユーモア溢れる巷談に仕立て上げる辺りが文豪と言われる所以であろう。"吾輩"や迷亭に「女性の影響というものは実に莫大」、「女は罪な者」と言わせているのは、漱石の後の作品群を考えると意味深々。漱石の原点でもあり、近代化に依って浮かび上がった「個人」の問題を徹底追及した日本文学を代表する傑作。
悶**悶
著者の処女作を、熟年になって初めて読みました
率直な感想は、「意外に読みづらい」。名前の無い猫の視点で描くというユニークな手法から、ユーモアに満ちた作品と想像していたところ、実際そうなのですが、まず、ストーリーらしいものがありません。主人公の猫を取り巻く、人間達の日常を考察するというスタイルになっています。作品の発表は、1905年1月に1回の読み切りという形で、俳句雑誌「ホトトギス」に掲載されたところ、好評につき、続きが掲載されたということで、本作品は、11章で構成されています。つまり、長編小説という視点で全体の構想が練られてから執筆されたものではなく、次々と短編を書き足していったような感じで、連作短編集といったものに近い感じ。それぞれの章には、いろいろなエピソードが詰まっていて、猫の視点で見た人間社会への皮肉、という部分は、当初想定したとおりでした。しかし、物語の中で多くを占める、猫の主人、珍野苦沙弥と彼のもとに集まってくる人々との会話が、どこまでが本当なのか分からない、法螺話のようなものがほとんど。そこには、聞いたことのない、外国の人名やら、ルビなしでは読むことのできない、漢語が目立ちます。本作品の翌年、1906年に発表されたもうひとつの代表作、「坊っちゃん」に比べると、まだ、洗練されていない印象の作品でした。ある意味では、著者の知識を総動員して執筆されているようにも思われますが、どことなく「上から目線」が感じられ、この路線のままだったなら、文豪になれたかどうか、疑問に感じてもいます。私は、本作品を読む前に晩年の作品「こころ」を読んだのですが、あまりに作風が違いすぎる。これが同じ作者の手によるものとは到底思えないほど、異なった作風です。「こころ」の底に流れる「死」という重いテーマが、本作品では「自殺」という視点で、最終の11章で論じられていますが、この内容については、真面目な感想を述べる必要はないでしょう。そのくらい、「人を喰ったような」内容の論の展開です。ちなみに、「二十世紀」という言葉がやけに出てくるなと思い、検索してみたら、12箇所もヒットしました。思えば、本作品執筆時の1905年は、20世紀になったばかり。社会風刺を盛り込んでいくと、どうしても20世紀という言葉を使わざるを得なかったのでしょう。そういう意味では、当時の人々は、まさに「今という時代」に斬り込んだ作品として、楽しんでいたのかもしれません。
シ**ト
読んでみようかな?!
正岡子規繋がりで購入。ただまだ最後まで読んでません。
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2 days ago
1 week ago